歴史散策マップ
おおはら歴史散策マップ
ようこそ大原へ
大原の美しい自然、その中に遺された風習、史跡、神社仏閣、野仏など、人々の暮らしの営みの流れで変わっていき忘れ去られるものもあります。歴史を繙きたずねることは興味の尽きないことです。大原歴史探訪の道しるべとしてご活用ください。
悠久の歴史ロマン大原を訪ねて
・大原の里の成り立ち
甲賀町の中央部に位置し、北は佐山、南は油日に接しており、東部は南鈴鹿山脈を経て三重県に、西部は甲南町寺庄に接しています。東部地域は那須ヶ原山や高畑山が連なる山地で主に花崗岩からなり、一方大原川流域は古琵琶湖層群からなる丘陵が広く覆い、ヤツデの葉を広げたような複雑な谷地形を形成し、重粘土地帯となっています。
・大原の歴史
歴史は古く、長元5年(1032)の「左経記」に「甲可郡大原庄」とあり藤原道長の所領であったと考えられ、当地域はまた伊勢や伊賀とも地理的に近いことから幾度となく戦場となり、元暦元年(1184)には伊賀で挙兵した平田家継と近江源氏の佐々木秀義との間で甲賀源平合戦が繰り広げられました。その後、応仁、文明期以降は佐々木六角氏の支配下に入っています。
・大原谷と甲賀武士
中世の大原谷では甲賀武士大原氏が治めていました。大原氏は三河国設楽郡を出自とし、鎌倉時代前期には近江に移ったとされ、戦国時代には、同じ姓を有する一族で大原同名中を組織し、掟を定めて共和的な運営を行っており、領域内に篠山城や垂井城、櫟野大原城など多数の城館を築いています。中でも篠山氏は徳川家への忠誠が厚く、慶長5年(1600) 関ケ原の前哨戦であった伏見城の戦いでも、篠山景春は徳川方として伏見城に籠城し討死しています。
江戸時代には、鳥居野村や大原中村、大原上田村、櫟野村では一つの村が複数の領主によって治められる「相給」(あいきゅう)が見られました。大原での主な領主は、尾張を本拠とする旗本堀田氏で、櫟野村圓鏡院に堀田一通の墓があり、その子堀田河内守一輝が高野村、大原上田村、櫟野村を治めていました。
大原上田村では、同じ堀田一族であった堀田宮内一之も領地をもち、宮内は他にも相模村、鳥居野村、大久保村、櫟野村も治めていました。その他、神村、大原中村に領地をもっていた稲垣安芸守重定は神崎郡山上に陣屋をもっていた山上藩の大名です。
歴史文化財が点在する-忍びの里・甲賀-
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(1)甲賀の里忍術村
(2)福生寺
(3)鳥居城趾
(4)多聞寺
(5)大鳥神社
(6)篠山城跡
(7)長福寺
(8)常光寺
(9)佛性寺観音堂
(10)楽花園(らっかえん)
(11)鹿深(かふか)夢の森公園
(12)くすり学習館
(13)櫟野寺(らくやじ)
(14)滝川城趾
(15)阿弥陀寺
(16)櫟野大原城趾
(17)油日神社
(18)甲賀歴史民俗資料館
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